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約束の大地

私自身は顯進様が摂理的長子であられると確信しています。 しかし、顯進様お一人ではなく、神様を中心として真の家庭の四位基台がなされてこそ実体的天一国の出発を成すことができます。 真の家庭理想の復活のために、祈りを込めて書きたいと思います。

教派ではない教会、教会でもない教会。

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教派ではない教会、教会でもない教会。

≪真のお父様のみ言抜粋≫

文鮮明自叙伝『平和を愛する世界人として』より

----131~131ページ----

翌年五月、奨忠壇公園に近い北鶴洞のバラックを借りて、「世界基督教統一神霊協会」の看板を掲げました。このような名称にした理由は、いかなる教派にも属したくなかったからです。だからと言って、もう一つ他の教派を作る考えは更にありませんでした。…(中略)

 

とはいえ、私は教会という言葉をさほど好みません。…(中略)…本来、教会という言葉で人と私を分ける理由は何もありません。にもかかわらず、世間は「教会」を特別な意味を持つ言葉として使うのです。私はそういう特別な部類に属したくありませんでした。私が願ったのは教派のない教会でした。真の宗教は、自分の教団を犠牲にしてでも国を救おうとし、国を犠牲にしてでも世界を救おうとするものです。いかなる場合であっても教派が優先にはなり得ません。

 

仕方なく教会の看板を付けたにすぎず、いつでもその看板を外したい思いです。教会の看板を付けた瞬間、教会は教会でないものと区別されます。一つのものを二つに分けることは正しいことではありません。それは、私が夢見ることでもなく、私の行くべき道でもありません。国を生かし、世界を生かすために、もしも教会の看板を外さなければならないとするならば、今でも私はそうすることができます。

 

----250ページ----

宗教の間に立ちふさがる壁を崩さなければ、絶対にこの地上に平和は訪れてきません。宗教は、すでに数千年の間、全世界の多くの民族と連合して大きくなってきたので、文化的垣根が非常に高く、それを崩してしまうことはとても大変なことです。それぞれ異なる宗教が高い壁の中で、自分だけが正しいと主張しながら数千年を経てきました。時には勢力を広げようと、他の宗教と対立して争うこともありました。神の御旨でもないことに、神の名を掲げたのです。

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以前の記事で、以下のように書いたことがあります。

本然の基準は、ために生きることにある。

----(引用開始)----

お父様が摂理の曲折の中で1954年5月1日に統一教会を創立された時、特定の宗教団体をスタートさせることのデメリットを相当に警戒されていたのだということが、自叙伝には書かれています(『平和を愛する世界人として』131~136ページ)。しかし、実際には私たちは、お父様が警戒されていたデメリットに見事にはまり込んでしまったようです。

----(引用終了)----

このことについて、今日は書きます。最近紹介した氏族メシアに関する顯進様のみ言がありました。私たちが宗教の殻を脱ぎ捨て、氏族メシアや家庭連合へと移行する段階になって、ますます、特定の宗教団体をスタートさせたことのデメリットに気を付けなければならないと感じます。

 

1945年当時、キリスト教が全盛を迎えた時、お父様がもたらそうとしておられたのは、全人類を一つにすることができるビジョン、親なる神様の下に、人類一家族世界を実現するというビジョンでした。そのビジョンの下に、それまで分裂していたキリスト教を一つにし、すべての宗教を糾合し、国連改革を通して地上天国を成し遂げるために来られたのであり、新しい宗教団体をもたらすために来られた訳ではありません。

 

ところが実際には摂理の曲折の中で、1954年5月1日、お父様は統一教会を創立することになりました。その当時を回想されたのが上のみ言です。

 

今、定着時代に入ったということは、1945年当時の本来の摂理が出発する「ゼロ・ポイント」に回帰したということです。統一教会として荒野時代を通過しながら身につけたすべての慣習を脱ぎ捨てて本来的摂理に向かわなければなりません。

 

それでお父様は統一教会創立当初から、いつか本来的摂理に回帰する時に、宗教団体が陥りやすいデメリットが阻害要因とならないように、我々統一教会は「真の宗教」でなければならないとされました。それは上のみ言にあるように、教派に対する拘りを棄て、自分だけが正しいという主張を棄て、自分の教会と他の教会を区別せず、自分の教会を犠牲にしてでも平和や救いを優先する、という姿です。これがお父様が与えてくださった戒めです。

 

実際に私たちが作ってきた統一教会はどうだっただろうかと考えると耳が痛いです。分裂する以前の統一教会の姿を振り返っても問題が多かったですし、今、三つに分裂してお互いに「こちらが正しい」と主張し合う姿においても、そのこと自体がお父様の戒めに引っ掛かっています。

 

私たちの中にある「宗教的エゴイズム」(堕落性)と「荒野時代の古い観点」(摂理的無知)の二つが絡み合い、それがサタンの餌になってしまっています。今、統一家が三つに分かれていますが、どの立場にあるにせよ、こういったものを脱却していかなければなりません。

 

1945年当時、もしもキリスト教がお父様を受け入れていれば、どのような摂理が展開するようになっていたのか?一度、頭の中を白紙に戻して祈らなければならないですね。



「自分だけが正しい!」と主張しまくっていた食口は、反省のクリック!!


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