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約束の大地

私自身は顯進様が摂理的長子であられると確信しています。 しかし、顯進様お一人ではなく、神様を中心として真の家庭の四位基台がなされてこそ実体的天一国の出発を成すことができます。 真の家庭理想の復活のために、祈りを込めて書きたいと思います。

文化が正しいレンズと視覚を与える。

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文化が正しいレンズと視覚を与える。

顯進様のみ言抜粋≫

『心情文化の主人』(第三回W-CARP IEC開会の辞、韓国・牙山、2003年7月9日)

「皆さんは従わなければならない」と私は決して言いません。ビジョンと目標が何であるかを教え、もし皆さんがリーダーになりたいのであれば、このビジョンと目標の主人にならなければならない、自分のものにしなければならないと言います。そのビジョンと目標の主人になるということは、自動的にW-CARPの方向性とアラインしていくということを意味します。…(中略)…これこそ、私たちが迎える定着時代に合致した行動方法なのです。…(中略)

相続の過程には、主人意識とアライメントという、二つの要素が前提になっているのです。それが異なる二つの世代、または異なる二種類のグループを、一つの明確なビジョンと目標で結びつけることができる結束力をつくるのです。…(中略)

しかしながら、何もない真空状態においては、これをなすことはできません。ですから文化がとても重要です。何故なら文化とは、アラインメントの程度を決定するものだからです。ビジョンと目標だけでは不十分なのです。…(中略)…全てが同じ視覚で、そのビジョンと目標を見つめるようにする普遍的な文化を持つことが重要なのです。…(中略)

何よりも一番重要な点は、文化が正しいレンズや視覚を与えてくれるということです。私達は文化を通して、私達がビジョンや目標だと考えるものを正しく見つめることができるのです。…(中略)

アダムとエバが堕落しなかったら、どうだったかを考えてみてください。もしアダムとエバが堕落せず、真の家庭を実現することができていたなら、その家庭こそが人類の根本土台になっていたのです。…(中略)…何によってその理想家庭に結びついて、一貫して、一体化した観点を手に入れることができるでしょうか。それはまさに、最初の家庭から生まれた「文化」です。その文化とは、どんな文化だと思いますか。

原理の表現を使ってみましょう。四大心情圏とは何だと思いますか。それこそが、心情文化を創造するための基礎、あるいは根本ではないでしょうか。何を中心として。(真の愛)それでは真の愛とは何ですか。為に生きることです!

(『神様の夢の実現』174~177ページ)

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前回から、顯進様が2003年にW-CARPの国際教育カンファレンス(IEC)で語られたみ言を紹介しています(2回目)。IECはW-CARPの指導者育成の一環として行われたものです。

前回は、ビジョンと目標に対してオーナーシップを持つことで、燃え上がるような自発的エンジンを持つことができるということで書きました。それは、自動的にアラインメントされることを意味すると語られています。

今回は、文化について中心的に語られた部分です。文化がビジョンや目標を見つめる正しいレンズや視覚を与える、と言われた時に、かつての私は正直、ピンとこないものがありました。今は少しわかるようになった気がしますので、私見を述べます。

私達が持つべき文化というのは、言うまでもなくために生きる文化、真の愛の文化です。これがビジョンと目標を正しく見つめさせてくれるというのです。どういう意味でしょうか?

例えばお父様が、「青年を5万名伝道するんだ!」と仰ったとします。これは目標です。お父様の観点からすると、統一教会を犠牲にしてでも国と世界を救うために、最低限、5万名が必要だということです。しかし、私達においては、自らの教勢拡大を考えてしまいます。目標に対する見つめ方がお父様と私達で異なるのは、文化が違うからです。お父様は5万名の青年を通して国と世界を救いたいという真の愛に溢れていますが、私たちは、「早く迫害から抜け出してメジャーになりたい。5万名も青年がいれば…」などという自己中心的なことを考えやすいのです。

例えば顯進様が、奉仕活動を通して平和を実現する新しい運動を起こそうという指示を下さったとき、それは私達が認められるためではなく、国と世界のためです。しかし私達は何を考えるかというと、活動に参加した人が、最終的に私達のメンバーになってくれるのかどうか、奉仕活動した結果、私達の教勢が拡大するのかを心配してしまうのです。これも上の例と同じことで、文化の違いです。

キリスト教徒が最初にお父様と出会っていれば、恐らく私達より「真の愛の文化」を所有するのは、はるかに早かったことでしょう。

5万名を伝道するにしても、奉仕活動の運動にしても、人々は入り口では喜んでも、実際に中まで入ってみた時には、最終的にそこで感じる文化が真の愛の文化ではなく、根本的には自己中心の文化だとすれば、そこに共感したり感動したりできずに、離れて行ってしまいます。

統一教会というものを創設される時、お父様が本当に警戒されたのは、一つの教会(宗教団体)を作ることで、最終的に自己中心の壁にぶつからないだろうかということです。自叙伝から引用して終わります。

---- 引用開始 ----

とはいえ、私は教会というものをさほど好みません。…(中略)…本来、教会という言葉で人と私を分ける理由は何もありません。…(中略)…私が願ったのは教派のない教会でした。真の宗教は、自分の教団を犠牲にしてでも国を救おうとし、国を犠牲にしてでも世界を救おうとするものです。いかなる場合であっても教派が優先にはなり得ません。仕方なく教会の看板を付けたにすぎず、いつでもその看板を外したい思いです。…(中略)…国を生かし、世界を生かすために、もしも教会の看板を外さなければならないとするならば、今でも私はそうすることができます。
(『平和を愛する世界人として』131~133ページ)
---- 引用終了 ----



現在の統一教会(家庭連合)は、正にお父様が心配された道を進んで行っています。


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