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約束の大地

私自身は顯進様が摂理的長子であられると確信しています。 しかし、顯進様お一人ではなく、神様を中心として真の家庭の四位基台がなされてこそ実体的天一国の出発を成すことができます。 真の家庭理想の復活のために、祈りを込めて書きたいと思います。

本然の基準は、ために生きることにある。

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本然の基準は、ために生きることにある。

顯進様のみ言抜粋

『真の父母様の基準と伝統』(米国・ベルベディア修練所、1988年5月8日)より

神様を中心として生きる人として、残すべき伝統とはどのようなものですか?それは、私たちだけのためではなく、人類と隣人、そして兄弟姉妹のために生きなければならないという伝統です。これがまさに、真の父母様が立ててくださった真の基準であります。・・・(中略)・・・どれだけ他人に与えようとする生活をしてきたかということが、本然の基準になるのです。他人のために生きようとすることが、すなわち真なる心情であるということです。


(『神様の夢の実現』29ページ)

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まず最初に言いたいのは、これから数回にわたって取り上げていくこの『真の父母様の基準と伝統』という説教を、顯進様はなんと19歳の時に語られたということに、私は度肝を抜かれているということです。単に言葉を語るだけならば簡単かも知れませんが、説教全体を通じて伝わってくる確信は、19歳にして自ら語る言葉に対して負債なく実行しておられることを感じ、思わずうなってしまいます。

 

さて、み言の中身についてです。

「ために生きる」という言葉は食口にとってはありふれた言葉です。しかしこの言葉を突き詰めていくと、お父様にとっての「み旨」と私たちが理解していた「み旨」が若干異なっていたのではないかと考えさせられます。

 

端的に言えば、お父様はすべての人々の救済を考えておられたのに、私たちは組織の拡大を「み旨」だと勝手に勘違いしてきたのではなかろうか、ということです。

 

すべての人々を救済するための一つの手段として作った組織であるにも関わらず、いつの間にか組織自体が目的になってしまったように思います。もしも私たちが、自らのアイデンティティを所属する組織に見出している場合、組織が社会から認められるようになることは、同時に自分が認められているかのように感じるものです。それで組織のために一生懸命に生きても、それはどこかで自己中心です。

 

お父様が摂理の曲折の中で1954年5月1日に統一教会を創立された時、特定の宗教団体をスタートさせることのデメリットを相当に警戒されていたのだということが、自叙伝には書かれています(『平和を愛する世界人として』131~136ページ)。しかし、実際には私たちは、お父様が警戒されていたデメリットに見事にはまり込んでしまったようです。

 

 

私自身も「み旨」を歩んできながら、どれだけ人のために涙を流して来ただろうか、そしてお父様のように世界中の人々を救済しようということを、どれだけ本気で考えてきただろうか、これからはそうならなければならない、と感じさせられます。

 

そのような心情を持ち、実践できるようになることが、本当の意味で「私は救われた」ということではないでしょうか?


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