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約束の大地

私自身は顯進様が摂理的長子であられると確信しています。 しかし、顯進様お一人ではなく、神様を中心として真の家庭の四位基台がなされてこそ実体的天一国の出発を成すことができます。 真の家庭理想の復活のために、祈りを込めて書きたいと思います。

神様が用いる公式。

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神様が用いる公式。

顯進様のみ言抜粋

『希望を失ってはならない』(米国・ベルベディア国際研修所、1994年10月23日)より

 

堕落は、神様のみ旨と全く正反対の世界を造り出してしまいました。ある強い力が個々人の生活の中に作用し、人々を神様から遠ざけようとします。さらに、人々は一般的に、難しい道よりは容易な道を選びます。理想的夢を達成するのが不可能だと考え、人々は現実の前に屈服してしまうのです。しかし、歴史の中では、模範として従うにふさわしい、並外れて高潔な人々がいました。その人達はしばしば、気違いだと言われながらも、現実の状況に決して屈服しませんでした。彼らは生涯を通して、どのようなメッセージを明らかにしたのでしょうか。それは、人間は自分自身のために生まれたのではないということです。…(中略)

 

ソクラテス、モーセ、ムハマド、イエス、釈迦のような人々は、この世界に途方もない影響を与えました。彼らの影響は、彼らの死後にも及びました。真理と正しい生き方を求める彼らの渇望は、世代を超えて人々に伝えられてきました。人々は真実、悟り、洞察力を得るために、彼らが提示したものを振り返ってみるようになるのです。

 

神様はまさに、このような公式を用いられました。…(中略)…本心は、神様の理想と期待に従って生きようとします。神様と善なる霊界は、常に人類を、歴史の中の重要な人物に結びつけることにより、育ててきました。

 

私達が今経験していることが、キリスト教徒が2000年前に経験したことと何が違いますか。世の中の反対が、到底耐えられないと感じますか。…(中略)…2000年前にに迫害を通過していた人達は、どのように思っていたでしょうか。首に刀を当てられ、競技場の中でライオンに直面した時、怖かったに違いないのです。その時彼らは、これが本当に正しい信仰なのだろうか、そのために死ぬほどの価値のあるものだろうか、と考えたことでしょう。その人々の名前は解りませんが、私達はそのような人々を尊敬します。

 

統一教会を振り返るとき、人々は皆さん個人の名前は知らないかもしれませんが、とてつもない困難にもかかわらず、真のお父様が立てられた基準に従った人々として、記憶することでしょう。皆さんの犠牲と献身と、血と汗と涙が、彼らに感動を与えないでしょうか。

 

(『神様の夢の実現』77~79ページ)

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前回まで、「父子協助時代」に関するお父様のみ言を紹介してきました。今回からは、顯進様が25歳の時に語られた『希望を失ってはならない』というみ言を紹介します。

 

このみ言は、92年の三万双祝福以降、統一教会に対する迫害が強まった状況下で語られたみ言です。顯進様は私達を励ますために、歴史の中で迫害に屈することのなかった人々、当時は迫害されたが、後世の人々からは尊敬を受けた人物たちのお話をしてくださっています。

 

そのような人物たちが明らかにしたのは、「ために生きる」という一貫した真理と正しい生き方だったということです。

 

私達はお父様をメシヤ・再臨主という特別な方として、その他の偉人・預言者たちと分けて考える傾向があります。確かにお父様は神の血統を持ってこられた特別な方なのですが、しかし他の人物たちのように、「ために生きる」という一貫した真理と正しい生き方を明らかにし、実践された方だということは同じです。違うのは、完全に明らかにし、完全に実践されたということでしょうか。

 

今日の統一家の混乱の中で、自らの信仰に誇りを失ってしまったり、教派意識に囚われたり、ご利益信仰に走ったり、被害者意識が強くなったり、批判的になったりなど、とにかく「良心」とは異なる方向へと追いやられてしまいやすいのではないでしょうか。私の場合も過去数年間、批判的になりやすい傾向がありましたし、今も戦っています。しかし顯進様のみ言や姿勢に接すると、そのような視点、レンズからは、正しい方向性を見出すことができないことに気づかされます。

 

今日の顯進様のみ言は、私達が歴史の中で神様が用いることの出来る群れとして生き残るためには、「徹底して他者のため、世界のために生きる」という心情のレンズを通さなければならないと教えてくださっています。それが、真のお父様の立てられた基準に従うということであり、歴史はいずれそのような道を行く人々を評価するようになると教えられています。これは歴史の公式であると。

 

シンプルに考えれば、自己中心が向かうところは「カルト」、真の愛が向かうところは神の人の道、ということだと思います。90年代から今に至るまで、統一教会の進んできた道はどうだったでしょうか?現れた結果は、「無残」と言えるかも知れません。

 

しかし神様の摂理が無くなることはありません。私達は今からでも神様が用いられる歴史の公式に従い、人々が記憶するような、真のお父様が立てられた基準に一致する人々にならなければと思います。



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