私自身は顯進様が摂理的長子であられると確信しています。 しかし、顯進様お一人ではなく、神様を中心として真の家庭の四位基台がなされてこそ実体的天一国の出発を成すことができます。 真の家庭理想の復活のために、祈りを込めて書きたいと思います。
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≪顯進様のみ言抜粋≫
『希望を失ってはならない』(米国・ベルベディア国際研修所、1994年10月23日)より
私は、人が自分のためだけに生きるのではなく、自分に与えられた責任を果たさなければならないことを強調します。結論的に言えば、成熟した個人になりなさいということです。…(中略)…責任感のある父母になるということは、子供の幸福について考えることです。これを個人が持っている責任の各段階に適応することができます。息子の位置で真の息子だと言うことは、父母に対して責任を持つということです。真の兄弟だと言うのは、自分のことを考える前に、他の兄弟姉妹のことを考えるということです。夫の位置に立つとは、妻のことを考えるということです。そのような姿勢と行動を実践する時、私達はその位置に見合った資格を得るようになります。何故なら、資格は位置ではなく、実践によってついてくるものだからです。責任感があるということは、正しいことをするということです。歴史を振り返った時に、偉大な人として評価を受けたいのなら、このような根本的事実を理解しなくてはなりません。
私は大義の為に、自分を犠牲にする映画を観ると感動します。…(中略)…犠牲精神は、真の愛の本質なのです。もし、皆さんが真の愛を持った人になりたいのなら、自分の父母、兄弟、姉妹、配偶者、そして子供達のことを考えなければなりません。…(中略)…真の愛は、自己犠牲に基づくものです。子供ですら、犠牲になる人が真の愛を見せている人だとわかります。自己犠牲は真の愛の鍵ですが、それは自分自身を、人のために完全に捧げることです。…(中略)
真の愛を理解するのに、博士号が必要ですか。要りません。誰でも生まれつき、真の愛を理解する能力がありますが、それは、真の愛を本心が感じるためです。それは全ての人々に当てはまります。
(『神様の夢の実現』79~81ページ)
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前回から、顯進様が25歳の時に語られた『希望を失ってはならない』というみ言を紹介しています(2回目)。前回は、たとえその時代において迫害を受けても、ために生きる人々を歴史は感動をもって記憶する、それが歴史の公式であるということを書きました。
人間は責任分担を果たすことで成長し、完成します。その内容を顯進様は、「責任感」と「犠牲精神」ということで説明されています。
父母に対して子女、夫に対して妻、兄姉に対して弟妹という風にすべては相対関係になっていますが、責任感とはこれらの関係性の中で正しいことをするということ、すなわち、相対のために存在する、ということです。
また、真の愛の本質は自己犠牲であるということを、人は生まれながらにして知って、感動することができると教えてくださっています。
結論的に、このような「責任感」と「犠牲精神」を持った成熟した祝福中心家庭の姿を真の父母様は願われました。祝福を授かることは責任分担のスタートを切ったことであり、その責任分担を果たし切ってこそ、完全に救われ、完成することができます。
私も祝福中心家庭としての使命を自覚して、新たな出発を切りたいと考えています。
〔ところで…〕
近頃、「聖酒」or「毒酒」というような議論がありますが、その方々は、正しい聖酒を飲むことで、救いの何%が決定されるとお考えなのでしょうか?
責任分担は他者が代わりに果たすことはできません。聖酒によって許される罪があるとしても、責任分担を果たさなければ、「マイナス」だったのが、「ゼロ」になっただけではないでしょうか?聖酒を飲んでも、完成に向かっては、まだ一歩も歩いていません。それだけで救われたと考えるのは、キリスト教の信仰です。
また、「口にはいるものは人を汚すことはない」とイエス様は語られました。そして「かえって、口から出るものが人を汚すのである」と語られました。(マタイ15:11)
キリスト教はお父様を荒野に追い出しました。それは「第二の堕落」と呼ばれるほど、摂理の痛手でした。しかしその後もお父様はキリスト教の洗礼に対して「毒」だなどとは仰いませんでした。
他者のものを「毒酒」だと言う悪意ある言葉が、かえって人を汚すのではないでしょうか?
「毒酒」が口から入っても堕落はしないと思った食口はクリック!!