私自身は顯進様が摂理的長子であられると確信しています。 しかし、顯進様お一人ではなく、神様を中心として真の家庭の四位基台がなされてこそ実体的天一国の出発を成すことができます。 真の家庭理想の復活のために、祈りを込めて書きたいと思います。
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≪顯進様のみ言抜粋≫
『希望を失ってはならない』(米国・ベルベディア国際研修所、1994年10月23日)より
真の家庭の意味とは何ですか。真の父母様の勝利と真の家庭の形成は、神様の目的が地上で成就することを意味します。しかし、だからといって、私たちの責任がなくなり、何でもしたいことができるということを意味するのでしょうか。何でもしたいことをするというのは、責任の欠如を意味します。
私達の生活に規範があるので、私達は成熟した責任感ある人間になることができます。…(中略)…歴史を通して、円熟した人達はこの事実を理解し、規範原理に従って生きようとしました。全ての文化には、愛国者、偉大な人物、そして犠牲的な人物に対する観念があります。韓国、日本、アメリカ、ヨーロッパ、どこにでも、愛国者、偉大な父母、偉大な人物とはどういう人であるかということについて、共通理解があります。私達の人生には、いつも求められるものがあるということを悟らなくてはなりません。しかし、このような要求は悪いものではありません。私達に責任感を教え、自分を越えて他の人々とのつながりを認識させてくれるからです。これ自体が、強力な教えです。
(『神様の夢の実現』83~84ページ)
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顯進様が25歳の時に語られた『希望を失ってはならない』というみ言を紹介しています(4回目)。前回はアベル・カインの目的は縦的基準の確立ということで書きました。
今回の引用部分の冒頭で顯進様は何気なく語っておられますが、真の家庭の形成は、地上に神様の創造目的が成就するということを意味するという、非常に重要な内容を語られています。現在の家庭連合では省かれてしまう原理がここにあります。真の父母だけを強調して、真の家庭を強調しない(できない)のです。本来は真の家庭が定着してこそ、神様の理想が実現するのであり、真の父母という理想以上に大きな理想が、真の家庭理想であるはずです。ここから目を背けています。
また顯進様はそれと同時に、真の家庭の構成員各自に責任分担があることも強調されています。「真の家庭」とは単に「文鮮明・韓鶴子ご夫妻の家庭」という意味ではなく、神様が描いたモデル的家庭理想(神を中心とする家庭的四位基台)を言います。真の家庭のお一人お一人が、神様の期待に応えるために努力されることが必要です。
続いて顯進様は、すべての文化の中に共通して理想的人間像に対する観念があることを指摘されています。端的に言えば、それは自分を越えて「より大きな善」の為に生きる姿です。これ自体が強力な教えであると。
我が日本で言えば「武士道」という道徳観を新渡戸稲造が説明しています。この「武士道」を全うするだけでも、相当に立派な人間だと言えるでしょう。同様にキリスト教の中にも、イスラム教の中にも、仏教の中にも、十分に立派な徳目が示されています。お父様も他宗教の方々に改宗を勧めるのではなく、「最高のキリスト教徒になってください」などと勧められます。
つまりそれらの徳目に従っていけば、それが十分に「メシヤのための基台」となり得るということだと思います。本来ならばお父様に一番最初に出会うべき方々というのは、そのような「メシヤのための基台」を持った人々、特にキリスト教徒たちでした。しかし実際にお父様のもとにやってきた人々、食口と呼ばれるようになった人々は、多くの場合はそのような準備された人々ではありませんでした。
ですから私たちは、そういう「メシヤのための基台」(規範原理に従って生きること)をすっ飛ばして、「お前たちは第三イスラエルだ」「祝福中心家庭だ」「神の血統だ」などという、自分に都合の良い、言われて気持ちの良い言葉ばかりを受容してきたのではないでしょうか?
結論として私たちは、歴史的に築かれてきた規範原理に従うことで、まずは高潔な人間、尊敬を受け得る人間にならなければならないのだと思います。その上でようやく、お父様が再臨主として解き明かしてくださったみ言が、私たちにおいて意味を成して来るのではないでしょうか?
神様は全人類の親です。世界の至るところで、あらゆる人を通して、絶えず働かれています。当然ながら、私たちが世の中に学ぶことが、沢山ありますね。「カイン圏」とか「サタン圏」、あるいは「非原理」という言葉は、かなり気を付けて使わなければと思います。
私こそ「非原理」だった、と反省した食口はクリック!
≪顯進様のみ言抜粋≫
『希望を失ってはならない』(米国・ベルベディア国際研修所、1994年10月23日)より
お父様は私達の組織を、世界のために生きる一つの有機体と見ています。私達の運動体すべてを動員して、世の中を愛することに導いています。…(中略)…皆さんがもし本当にこの統一家の一員になりたいなら、自分のしていることにあるレベルの献身と忠誠心を持たなければなりません。…(中略)…私達が、自分が統一教会員であると考える原則と基準は、真の父母様が作られたものであるため、その基準と伝統は尊重され維持されなければならないのです。
私達はアベルとカインの関係に関して学びますが、それは縦的伝統を確立する前に、解決しなければならない根本対立だからです。その目標は、アベルとカインの葛藤の解決でなく、縦的基準を立てることなのです。…(中略)…
神様の青写真は、三大祝福にはっきりと現れています。神様は、アダムとエバに個性完成せよと言いました。個性完成とは、神様に絶対的に献身することを意味します。内的衝動はありえますが、堕落してはいけません。最初の男女が成熟すれば、第二祝福を受け、善の子女を繁殖するのです。第三祝福は、地を主管します。善の子女の繁殖をして、すぐに地を主管することはできません。善の血統は歴史を通して、世代から世代に拡大して初めて、この地に対する真の主管がなされるのです。…(中略)
アベルとカインの対立という横的葛藤の解決は、縦的解決、すなわち父子の正しい関係の確立につながらなければなりません。
(『神様の夢の実現』81~83ページ)
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前々回から、顯進様が25歳の時に語られた『希望を失ってはならない』というみ言を紹介しています(3回目)。前回は「責任感」と「犠牲精神」を持った成熟した祝福中心家庭にならなければならないということで書きました。
今回のみ言は、私には少し意味が難しく感じられ、何度か読み直してみました。
お父様は世界を救済するため、私たちも一緒に世界のために生きる方向へと動員してくださいました。お父様が立ててくださった世界を愛する基準に、私達も子女として一致することを願われました。
アベルとカインが一体化するためには、お互いに「堕落性を脱ぐ為の蕩減条件」を立てなければなりませんが、堕落性を脱ぐことで、父の立ててくださった基準に一致していかなければなりません。
アベルにとってもカインにとっても、堕落性を脱ぎ真の愛の基準に一致することで、神様に似た者となり、個性完成、子女繁殖、万物主管という三大祝福に向かっていかなければなりません。これを、父子の正しい関係の確立、と表現されているのだと思います。
このようなみ言を皆様はどのように感じられたでしょうか?アベルを神の対場で愛する、アベルを通さなければならない、アベルに従順に屈服しなければならない、アベルからみ言を受け、従わなければならない・・・。これは日本食口の掟のようになっていました。原理講論に書いてある言葉自体は原理ですから正しいのですが、理解するレンズが問題です。
つまり、「堕落性を脱ぐ為の蕩減条件」を立てることで、正しい父子の関係を確立し、神様に似ること、創造目的を完成することが、本当の目的です。アベル・カインの原理を振りかざすアベルも、振りかざされるカインも、それによって創造目的の実現が阻害されては意味がないですね。
アベル・カインの原理を誤解することで、謙虚にために生きなくなるアベル、自分で考えなくなるカイン・・・。何だか心当たりが沢山あるような気がします。
とにもかくにも、祝福家庭に対する神様の期待は、神様の似姿として完成することにあるため、完成に向かって信仰生活を歩むという基準を奪われたら、信仰生活にならない訳です。
また、そのような基準で信仰生活を歩む者には、お父様の大きな願いもありがたく、喜んで順応できるのではないでしょうか?
顯進様のみ言はいつも、当たり前のことを言われているようでありながら、吟味すればするほど、心にビシッ!と響きます。
ビシッ!
≪顯進様のみ言抜粋≫
『希望を失ってはならない』(米国・ベルベディア国際研修所、1994年10月23日)より
私は、人が自分のためだけに生きるのではなく、自分に与えられた責任を果たさなければならないことを強調します。結論的に言えば、成熟した個人になりなさいということです。…(中略)…責任感のある父母になるということは、子供の幸福について考えることです。これを個人が持っている責任の各段階に適応することができます。息子の位置で真の息子だと言うことは、父母に対して責任を持つということです。真の兄弟だと言うのは、自分のことを考える前に、他の兄弟姉妹のことを考えるということです。夫の位置に立つとは、妻のことを考えるということです。そのような姿勢と行動を実践する時、私達はその位置に見合った資格を得るようになります。何故なら、資格は位置ではなく、実践によってついてくるものだからです。責任感があるということは、正しいことをするということです。歴史を振り返った時に、偉大な人として評価を受けたいのなら、このような根本的事実を理解しなくてはなりません。
私は大義の為に、自分を犠牲にする映画を観ると感動します。…(中略)…犠牲精神は、真の愛の本質なのです。もし、皆さんが真の愛を持った人になりたいのなら、自分の父母、兄弟、姉妹、配偶者、そして子供達のことを考えなければなりません。…(中略)…真の愛は、自己犠牲に基づくものです。子供ですら、犠牲になる人が真の愛を見せている人だとわかります。自己犠牲は真の愛の鍵ですが、それは自分自身を、人のために完全に捧げることです。…(中略)
真の愛を理解するのに、博士号が必要ですか。要りません。誰でも生まれつき、真の愛を理解する能力がありますが、それは、真の愛を本心が感じるためです。それは全ての人々に当てはまります。
(『神様の夢の実現』79~81ページ)
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前回から、顯進様が25歳の時に語られた『希望を失ってはならない』というみ言を紹介しています(2回目)。前回は、たとえその時代において迫害を受けても、ために生きる人々を歴史は感動をもって記憶する、それが歴史の公式であるということを書きました。
人間は責任分担を果たすことで成長し、完成します。その内容を顯進様は、「責任感」と「犠牲精神」ということで説明されています。
父母に対して子女、夫に対して妻、兄姉に対して弟妹という風にすべては相対関係になっていますが、責任感とはこれらの関係性の中で正しいことをするということ、すなわち、相対のために存在する、ということです。
また、真の愛の本質は自己犠牲であるということを、人は生まれながらにして知って、感動することができると教えてくださっています。
結論的に、このような「責任感」と「犠牲精神」を持った成熟した祝福中心家庭の姿を真の父母様は願われました。祝福を授かることは責任分担のスタートを切ったことであり、その責任分担を果たし切ってこそ、完全に救われ、完成することができます。
私も祝福中心家庭としての使命を自覚して、新たな出発を切りたいと考えています。
〔ところで…〕
近頃、「聖酒」or「毒酒」というような議論がありますが、その方々は、正しい聖酒を飲むことで、救いの何%が決定されるとお考えなのでしょうか?
責任分担は他者が代わりに果たすことはできません。聖酒によって許される罪があるとしても、責任分担を果たさなければ、「マイナス」だったのが、「ゼロ」になっただけではないでしょうか?聖酒を飲んでも、完成に向かっては、まだ一歩も歩いていません。それだけで救われたと考えるのは、キリスト教の信仰です。
また、「口にはいるものは人を汚すことはない」とイエス様は語られました。そして「かえって、口から出るものが人を汚すのである」と語られました。(マタイ15:11)
キリスト教はお父様を荒野に追い出しました。それは「第二の堕落」と呼ばれるほど、摂理の痛手でした。しかしその後もお父様はキリスト教の洗礼に対して「毒」だなどとは仰いませんでした。
他者のものを「毒酒」だと言う悪意ある言葉が、かえって人を汚すのではないでしょうか?
「毒酒」が口から入っても堕落はしないと思った食口はクリック!!
≪顯進様のみ言抜粋≫
『希望を失ってはならない』(米国・ベルベディア国際研修所、1994年10月23日)より
堕落は、神様のみ旨と全く正反対の世界を造り出してしまいました。ある強い力が個々人の生活の中に作用し、人々を神様から遠ざけようとします。さらに、人々は一般的に、難しい道よりは容易な道を選びます。理想的夢を達成するのが不可能だと考え、人々は現実の前に屈服してしまうのです。しかし、歴史の中では、模範として従うにふさわしい、並外れて高潔な人々がいました。その人達はしばしば、気違いだと言われながらも、現実の状況に決して屈服しませんでした。彼らは生涯を通して、どのようなメッセージを明らかにしたのでしょうか。それは、人間は自分自身のために生まれたのではないということです。…(中略)
ソクラテス、モーセ、ムハマド、イエス、釈迦のような人々は、この世界に途方もない影響を与えました。彼らの影響は、彼らの死後にも及びました。真理と正しい生き方を求める彼らの渇望は、世代を超えて人々に伝えられてきました。人々は真実、悟り、洞察力を得るために、彼らが提示したものを振り返ってみるようになるのです。
神様はまさに、このような公式を用いられました。…(中略)…本心は、神様の理想と期待に従って生きようとします。神様と善なる霊界は、常に人類を、歴史の中の重要な人物に結びつけることにより、育ててきました。
私達が今経験していることが、キリスト教徒が2000年前に経験したことと何が違いますか。世の中の反対が、到底耐えられないと感じますか。…(中略)…2000年前にに迫害を通過していた人達は、どのように思っていたでしょうか。首に刀を当てられ、競技場の中でライオンに直面した時、怖かったに違いないのです。その時彼らは、これが本当に正しい信仰なのだろうか、そのために死ぬほどの価値のあるものだろうか、と考えたことでしょう。その人々の名前は解りませんが、私達はそのような人々を尊敬します。
統一教会を振り返るとき、人々は皆さん個人の名前は知らないかもしれませんが、とてつもない困難にもかかわらず、真のお父様が立てられた基準に従った人々として、記憶することでしょう。皆さんの犠牲と献身と、血と汗と涙が、彼らに感動を与えないでしょうか。
(『神様の夢の実現』77~79ページ)
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前回まで、「父子協助時代」に関するお父様のみ言を紹介してきました。今回からは、顯進様が25歳の時に語られた『希望を失ってはならない』というみ言を紹介します。
このみ言は、92年の三万双祝福以降、統一教会に対する迫害が強まった状況下で語られたみ言です。顯進様は私達を励ますために、歴史の中で迫害に屈することのなかった人々、当時は迫害されたが、後世の人々からは尊敬を受けた人物たちのお話をしてくださっています。
そのような人物たちが明らかにしたのは、「ために生きる」という一貫した真理と正しい生き方だったということです。
私達はお父様をメシヤ・再臨主という特別な方として、その他の偉人・預言者たちと分けて考える傾向があります。確かにお父様は神の血統を持ってこられた特別な方なのですが、しかし他の人物たちのように、「ために生きる」という一貫した真理と正しい生き方を明らかにし、実践された方だということは同じです。違うのは、完全に明らかにし、完全に実践されたということでしょうか。
今日の統一家の混乱の中で、自らの信仰に誇りを失ってしまったり、教派意識に囚われたり、ご利益信仰に走ったり、被害者意識が強くなったり、批判的になったりなど、とにかく「良心」とは異なる方向へと追いやられてしまいやすいのではないでしょうか。私の場合も過去数年間、批判的になりやすい傾向がありましたし、今も戦っています。しかし顯進様のみ言や姿勢に接すると、そのような視点、レンズからは、正しい方向性を見出すことができないことに気づかされます。
今日の顯進様のみ言は、私達が歴史の中で神様が用いることの出来る群れとして生き残るためには、「徹底して他者のため、世界のために生きる」という心情のレンズを通さなければならないと教えてくださっています。それが、真のお父様の立てられた基準に従うということであり、歴史はいずれそのような道を行く人々を評価するようになると教えられています。これは歴史の公式であると。
シンプルに考えれば、自己中心が向かうところは「カルト」、真の愛が向かうところは神の人の道、ということだと思います。90年代から今に至るまで、統一教会の進んできた道はどうだったでしょうか?現れた結果は、「無残」と言えるかも知れません。
しかし神様の摂理が無くなることはありません。私達は今からでも神様が用いられる歴史の公式に従い、人々が記憶するような、真のお父様が立てられた基準に一致する人々にならなければと思います。
「カルト」になりたくない食口はクリック!
≪顯進様のみ言抜粋≫
『復帰摂理と信仰基台』(米国・ニューヨーク世界宣教本部、1994年1月1日)より
どんな誘惑が来たとしても、自分を固く保つことです。基準を守る人にならなければなりません。…(中略)…過去の概念を全て捨てて、絶対的に受け入れなければなりません。これが私達が守らなければならない条件ですが、そこから復帰が始まるのです。メンバーの数を心配する必要はありません。勝利は既になされています。お父様は歴史を発展する過程として見られるので、立てられるべき基台を作ることが重要なのです。…(中略)
メンバーが何人かということに囚われずに、作られた伝統に根を置いています。…(中略)…外的な基盤より、内的基台の重要性を認識しなければなりません。
私たちの勝利を、物質的なものからだけ考えてはいけません。まずは内的な基準から考えるべきです。その基準は、これから皆さんが立てていくべきです。そして、究極的で実体的な勝利は、私たちが耐えることができる基盤がある時にもたらされるのです。…(中略)
忘れないでください。勝利はまず内側から始まって、外側に実体化されていくのです。真の心と体の一体化を成し遂げれば、外的勝利はなされるようになっています。内的勝利をさておいて、実体的勝利を成し遂げようという失敗をしないで下さい。まず最初に内的勝利がなされなければ、その基台は長くは続きません。…(中略)
私達は自らの中に、真の父母様と理想家庭に対する、絶対的な献身と信仰の基台をしっかりと造らなければなりません。そのような基準を、引き下げようとするのでなく、引き上げることによって、神様と全霊界が与えたくてたまらない、無限の祝福を受けることができるようにしましょう。そのためには、まず第一に、その祝福を相続することの出来る基台を造らなければなりません。
(『神様の夢の実現』72~75ページ)
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顯進様が24歳の時、1994年の真の神の日に語られた『復帰摂理と信仰基台』というみ言を紹介しています(6回目・最終回)。前回は、神様、真の父母様、真の家庭が頼りとすることのできる成熟した祝福家庭が現れなければならないと書きました。
今回のみ言では、私たちが過去の概念をすべて捨てて、真の父母様の基準を完全に受け入れる時、「そこから復帰が始まるのです。」と語られています。この表現からすると、そうしないと始まらない、ということですね。復帰は再創造なので、完全に創造原理に一致した一点を再創造し、それをそのまま拡大しなければならないということで、変に妥協した基準のものを拡大しても、絶対に天国は創建できないということですね。考えてみれば確かにそうですが、私たちの中でそれを分かって歩んできた人は少ないのではないかと思います。いつも真の父母様や真の家庭を自分自身と分けて考え、その基準を相続することができませんでした。
次に顯進様は、「勝利はまず内側から始まって、外側に実体化されていくのです。」と語られています。定着時代において最も重要なのは、真の家庭の四位基台の定着です。「内側」でそれが成されてこそ、「外側」に広がって、宗教や国家の枠組みを超えて統一が成されます。
具体的に言えば、2003年は統一運動において宗教和合運動が飛躍した年でした。ユダヤ・キリスト・イスラムの聖職者たちが互いに手を取り合いエルサレム行進を行い、イエス様の戴冠式を成しました。さらに2005年には天宙平和連合(UPF)が創設され、真のお父様に続いて真の家庭、そして聖職者の方々が全世界を巡回公演されるようになっていきました。2008年には顯進様の指導の下、超宗教的平和運動が展開され、日本でも5万名の大会が行われました。このような摂理の延長線上には天一国創建が確実に見えていたのです。
このような巨大な天運はどこから来たのでしょうか?1998年から顯進様が家庭連合の世界副会長として立たれ、國進様、亨進様が立たれ、お孫様たちが祝福を受けられました。つまりこの時、真の家庭の四位基台が成されていたが故に、真の父母様の勝利圏が実体化される運勢のあった時だということです。
しかしながら2008年以降、真の家庭を中心として統一家全体の混乱が始まってしまいます。真の家庭の四位基台が崩れると、統一運動は一宗教団体の枠を出られなくなり、摂理的に後退してしまいました。2016年、現在の状況は、2008年以前の天運がまるで夢でも見ていたかのようです。こうして振り返ってみても、摂理の天運は、明らかに真の家庭を中心として動いていたのです。
ですから、勝利は外的基盤が問題ではなく、真の父母様の基準と一つになった内的基盤(真の家庭の四位基台、アベルの子女とカインの子女の一体化)が立てられれば、そこから爆発的に外側へと拡大されて行きます。アダム家庭がサタンに奪われることで、すべての問題が生じたのですから、復帰においては、真の家庭を神側に取り戻すことで、すべての分裂が自ずと収拾されていくようになっています。
私達は三つに分裂して、「こっちが正しい」と言っている場合ではありません。神様を中心に家族として一つになることだけが正しいのです。顯進様は自己を主張して他を批判するのではなく、責任を持たれています。「真の家庭理想」を諦めることは、神様のみ旨を放棄するのと同じことなのです。
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