私自身は顯進様が摂理的長子であられると確信しています。 しかし、顯進様お一人ではなく、神様を中心として真の家庭の四位基台がなされてこそ実体的天一国の出発を成すことができます。 真の家庭理想の復活のために、祈りを込めて書きたいと思います。
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≪顯進様のみ言抜粋≫
『復帰摂理と信仰基台』(米国・ニューヨーク世界宣教本部、1994年1月1日)より
復帰の最初の基台は、絶対信仰の基台です。内的基盤が最も重要であり、外的基盤は重要ではありません。私達の教会が、世界的には食口数が多くなく、ここに参加する人たちも数が少ないと心配しないで下さい。最も重要なことは、永続し持続する基台を造ることです。
歴史の中で、どれだけ多くの人が、物質的な利益のために、原理や基準をなおざりにし、伝統と信仰を曲げて安易な道を選んだでしょうか。そのような人々が成し遂げた勝利は、中身のないものでした。それに対して、私達がここで造っているものは、永遠に続くでしょう。私達はまだ少数ですが、理想的な息子娘になるとはどういうことなのか、皆さんの生涯を見て知るようになるでしょう。何故なら復帰は、皆さん一人一人から始まるからです。ですから、皆さんが今造っている歴史が最も重要なのです。
皆さんの中の何人かが、どう考えているか私にはわかります。しかし、原理を私的目的に利用したり、自分が願うとおりに組織を利用する人がいてはいけません。何故なら、そういう人たちは、天国建設を妨害するサタンとなるからです。敵は外の世界ではなく、皆さん一人一人の中にいるのです。天国も地獄も、外にあるのではなく、皆さんの中から始まるのです。サタンは真理を利用しながら誘惑してきます。神様は人間に、善悪の実を食べてはならない、食べれば死ぬだろうと言われました。しかしサタンは、彼らに「あなた方は死ぬことはないでしょう。素晴らしい知恵と知識を持つようになり、神様の如くなるでしょう」と言いました。サタンは、彼らの信仰の根本に試練を与え、彼らは神様の目的と理想に従わず、サタンに屈服しました。
(『神様の夢の実現』70ページ)
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顯進様が24歳の時、1994年の真の神の日に語られた『復帰摂理と信仰基台』というみ言を紹介しています(4回目)。前回は、純粋な動機で信仰していても、摂理について無知であれば、摂理に逆行してしまうことがあるということで書きました。
今回のみ言の前半部分は、外的に目に見える大きな基盤があることは問題ではなく、内的な基盤がどれだけ純粋で永続し得るものなのかが問題である、という内容です。よく似たことを、お父様も語られています。
何よりも先行されなければならないことは、信仰的な伝統、すなわち教会を中心とした伝統が問題になるのです。この伝統を中心として数を確保するのであって、伝統なくして数を確保したところで、これは烏合の衆の勢にしかならないのです。(『み言に学ぶ伝道の姿勢』‐霊界を通じた伝道)
今まで顯進様のみ言を紹介してきましたが、お父様も顯進様も一貫してこのことを私たちに教育して下さっていることが分かります。つまり、真の父母様が立ててくださった基準を、私達が心から相続しなければならないということです。そして真の子女様たちがアベルの子女、私達祝福中心家庭はカインの子女として、アベルカインが一つになることで、真の家庭の核をなし、それをモデルとして、そこから神の国が築かれて行くということです。
このように完成した真の家庭から神の国が拡がっていく訳ですが、私達もカインの子女として真の家庭の一員です。私達も神の国の出発に責任を持っており、真の父母様から相続した私達の生活、実体、文化が、神の国の生活、実体、文化になっていきます。これは衝撃的なみ言だ、と私は思います。私のような者と共に、神の国を出発させようとされたお父様の御苦労はいかばかりだったでしょうか。
次に後半部分は、現在の統一家の姿を予言するかのようなみ言です。
み言や組織を私的目的に利用しようとする者がサタンの代身者となって、み言を微妙に歪曲しながら、私達の信仰の根本に試練を与え、神様の目的と理想である真の家庭理想実現を妨げる、ということを指摘されています。
今日の状況を見ると、「正に・・・」と思われる方も多いのではないでしょうか。
2008年以降、あまりにも多くの過ちが犯されてしまいました。私達はこの状況の中から、何が本当のお父様のみ言で、何が本当の神様の摂理に適っているのかを見出すことで、サタンを克服していかなければなりません。しかしそのサタンは、まずは自分の心の中にいる、ということを顯進様は教えてくださっています。
色々と批判することもできるのですが、果たして私自身が、摂理に適っていたのかを反省し、今からでも相応しく成長しなければならないと思います。
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≪顯進様のみ言抜粋≫
『復帰摂理と信仰基台』(米国・ニューヨーク世界宣教本部、1994年1月1日)より
韓国キリスト教徒は、絶対信仰を基盤としており、どちらかというと根本主義的傾向があります。お父様は、この基盤が真の父母を迎えるために準備されたものだと語られています。ところが、韓国キリスト教徒はイエスに対する徹底した信仰に縛られて、お父様に対する信仰を受け入れることができませんでした。
信仰は、復帰のための最初の条件です。どういう動機で行うかが重要だと考える人は、このキリスト教徒が復帰過程に逆行したのは、彼らが悪であるためにそうであったのか、それとも善なるキリスト教徒としての責任感を守るためのものであったのか考えてみてください。摂理的観点で全体歴史を眺め、特に原理的観点でみる時、全てのことを動機だけで判断することはできません。
(『神様の夢の実現』69ページ)
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顯進様が24歳の時、1994年の真の神の日に語られた『復帰摂理と信仰基台』というみ言を紹介しています(3回目)。
今回の引用部分は、顯進様が少しだけお話の本筋から外れて語られた部分です。簡単に言えば、韓国のキリスト教徒がお父様を受け入れられなかった理由は、彼らが神様を愛していなかったとか、動機が悪だったからではなく、摂理観を理解することができなかった無知故であるということのようです。
私はよく信仰生活の中で「動機が最も重要だ」と考えているのですが、皆様はいかがでしょうか?そのような私にとって今回の御言は「動機だけではない」ということで、最初読んだ時には少し意外な感じがしたのですが、何度か読むうちに、今日の統一家の分裂を考える上では重要なお話ではないかと感じ、引用させていただきました。
2000年前、洗礼ヨハネはイエス様を受け入れることができませんでした。洗礼ヨハネは十分に純粋なユダヤ教徒であったにも関わらず、なぜ受け入れることができなかったのでしょうか。以下はお父様のみ言です。
洗礼ヨハネはヨルダン川で洗礼を与えるとき、イエス様のことを「神の子羊」と言い、聖霊が鳩のように臨んだので、間違いなくメシヤであることを知って証したのですが、よく考えるとイエス様はそのような人ではないと思えたのです。イエス様の族譜(家系)を洗礼ヨハネはすべて知っていたのです。彼の父は誰かということを知っていたのです。「そんな人がメシヤにはなれない」と否定せざるを得なかったのです。(『イエス様の生涯と愛』132ページ)
このように、洗礼ヨハネは神様に対する信仰の動機が自己中心で悪だったからではなく、神の摂理に対する無知によって失敗するようになったということです。イエス様はザカリヤとマリアの間に生まれた自分とは腹違いの兄弟であることを知っていて、そんな不倫のような関係から生まれてきた人がメシヤであるはずがない、と考えたということです。
ではそのような視点から今日、統一家の分裂を考えてみると、それぞれの立場において、純粋にお父様を愛する信仰心を持っている食口はいます。それぞれがお父様の御心が何かを探し求めています。しかしながら、お互いに摂理観が違ったり、真の家庭や統一運動の中枢で何が起こったのかという事実に対する認識に差違があるようです。
「摂理的観点で全体歴史を眺め、特に原理的観点でみる時、全てのことを動機だけで判断することはできません。」と語られているように、お父様を愛する食口であろうとする動機が純粋なものだからと言って、摂理的に正しい方向性を掴めるわけではありません。
顯進様はすべての祝福家庭に対して、根本的な「4つの質問」をされています。正しい摂理の方向性を探しておられる方は、この内容について、じっくりと考えてみられてはいかがでしょうか。(神様の摂理に対する4つの主要な質問)
また、今もお母様を心から愛し、家庭連合に属しておられる方は、お父様がお母様に指示された父子協助時代とは何かを考えてみていただければ、お母様を中心とした現在の体制が果たして神様の摂理の方向性に適ったものであるか、理解していただけるものと思います。(2000年・お母様に対するお父様の父子協助時代絶対指示)
そしてお父様を心から愛し、サンクチュアリ教会を支持していらっしゃる方々は、荒野時代と定着時代の違いや、統一教会の使命が終わり家庭連合の時代に入ったという意味について考えて見られてはいかがでしょうか。この点については、つたない記事ですが私も少し書きました。(今「是々非々」が重要な理由。/教派ではない教会、教会でもない教会)
私自身は顯進様が摂理的長子であると確信していますが、真の家庭が一つになられることなしに、摂理を成就する道はないと考えています。今は真の家庭を中心に統一家が三つに分かれてしまいましたが、必ず再び一つになるべき神様のみ旨があることを信じています。
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≪顯進様のみ言抜粋≫
『復帰摂理と信仰基台』(米国・ニューヨーク世界宣教本部、1994年1月1日)より
アメリカは、清教徒精神を基礎に建国されました。彼らは宗教迫害を避け、敬虔に神様に仕えるために、この新しい荒野世界にやってきたのであり、信仰と献身と確信により、この偉大な国を建てました。アメリカはまた、蕩減と贖罪の路程を歩まねばなりませんでした。南北戦争の時期まで、アメリカは偽善の中で生きる国でした。高い水準の生活原則を根拠として立てられた国であったにも拘わらず、その一方では奴隷制度を廃止するのが一番遅かった国でもあります。…(中略)
ニューイングランド地域社会は、宗教的理想を中心として建設されましたが、南部移民地は、世俗的な目標を中心として建設されました。この二つの相異なる植民地から、二つの相異なる理念と文化が生じ、それがアメリカ内にカイン・アベルの闘争を生むようになったのです。…(中略)
1960年代のアメリカは、十字架の道を歩まなければならず、戦争と荒廃に苦しみました。しかし、それはこの国が、メシアを迎えるために浄化されなければならない不可避的な過程でした。アメリカは、建国精神に再び戻らなければなりませんでした。…(中略)
たった200年という短い期間で、アメリカが世界最強国の位置に浮上するまでの全ての過程は、神様のために準備されたものでした。…(中略)…お父様は、1945年、再臨主を迎える準備ができていたと言われました。アメリカは神様に選ばれた国であり、その短い歴史に世界的な影響力を持ったキリスト教国家の理想郷として備えられたのです。…(中略)
神様は、キリスト教をヨーロッパから米国に移されましたが、それはヨーロッパのキリスト教が神様の理想から離れて制度化されるようになったからです。…(中略)…キリスト教がアメリカに移されると、教会は地域社会の中心になり、共同体内の構成員らに倫理観を形成させました。宗教は人格化され、それがアメリカ式の生き方となったのです。
神様は、教会を中心として運営される社会的基礎として、国家を準備しておられました。霊的な生活が、この国の良心の根っことなりました。理想的世界では、法律が必要でしょうか?必要です。…(中略)…しかし、たとえするべき行動とするべきでない行動を法律で規制したとしても、人々を善なる行動に向けさせるのは法ではなく、内的原則と道徳と倫理観です。私たちはこのような天国を創る過程にあるのです。
(『神様の夢の実現』66~69ページ)
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顯進様が24歳の時、1994年の真の神の日に語られた『復帰摂理と信仰基台』というみ言を紹介しています(2回目)。
このみ言を語られた時、顯進様はコロンビア大学で歴史学を学ばれていました。米国の歴史を神様の摂理に対する深い洞察をもって解説されています。
今日のみ言を見ると、結局、アメリカ合衆国が偉大な国になり得たのは、純粋な宗教的理想が、人間の堕落性からくる世俗的欲望とのアベル・カインの闘いに勝利することで、その純粋性を保ち得たからだということでしょう。
私たちも神の国を建設しようとしている訳ですが、アメリカ合衆国の先例から、何が重要なのかを学び取らなければなりません。
神様は信仰の祖であるアブラハム一人からイスラエル民族を育てて行かれたように、国家も純粋なる一点から広がっていきます。真の家庭が核となり神の国が拡がっていかなければなりません。
「教勢」や「箱物」が最も重要なものではないのは、明らかです。
今日、最も恐れなければならないことは、統一家の分裂という試練の中で、私たちの心の中の純粋な宗教的理想が打ち砕かれて現実に屈服し、信仰が冷めてしまうことではないでしょうか?
神様は必ず役事されます。神様が永遠をかけて信じておられる理想を、私も必死に信じなければならないと思います。
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≪顯進様のみ言抜粋≫
『復帰摂理と信仰基台』(米国・ニューヨーク世界宣教本部、1994年1月1日)より
聖書と原理は、信仰基台が復帰摂理で要求される最初の条件であると説明しています。私は真の父母様が、ご自身が真の父母であることを、皆さんに何度も立証しなければならないということにとても絶望感を感じます。…(中略)…皆さんの信仰が薄ければ、目に見える証拠が必要です。しかし、復帰の路程というものは、常に目に見えるものばかりではなく、抽象的なものから出発します。…(中略)
皆さんは、原理の理想通りに生きなければなりません。私は皆さんが信じていることを、実践の行動を通して見せて下さることを期待します。信ずることと行いが、違ってはいけません。もしもそれが異なっているとすれば、皆さんの内にある基台が間違っているのです。内的であり霊的な基台に根ざした行為は、常にどのような関係においても、善でなければなりません。
(『神様の夢の実現』64~65ページ)
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今回から、顯進様が1994年の真の神の日に語られた『復帰摂理と信仰基台』というみ言を紹介していきます。顯進様は当時、24歳です。
モーセ路程において、荒野で倒れたイスラエル民族は常に目に見える証拠を求め、現実に飲み込まれましたが、モーセは目に見えない神様との約束を握りしめて歩みました。
目に見える証拠をもって信仰を立てても、結局は神様の不変の子女となることはできません。目に見える証拠がなくても、心の中にある神様との約束の基台を絶対視して歩むからこそ、絶対不変の信頼関係を結ぶことができます。
世の中でも、赤の他人と約束をする時には、紙の契約書にサインして約束を交わしますが、親子の間の約束は、一度言葉で約束して、あとはそれを信じる、目に見えない約束です。神様と人間も、親子でなければなりません。
以上が私たちの心の話だとすれば、次に顯進様は、「信ずることと行いが、違ってはいけません。」と心と体の一致について語られています。私自身、神様と原理を信じているつもりですが、その割には実際の私の生活は、天国を創建するための一貫した生活ができるかと言えば、そうでもありません。それは「皆さんの内にある基台が間違っているのです。」と指摘されています。「本当の意味で信じていないから、信じる通りに生きることができていない」、反対に、「本当に信じるから、本当にその通りの投入ができる。」ということでしょうか。
私自身、神様との約束を心の中に守って歩んでいるつもりですが、その約束がクリアな時と、蜃気楼のようにぼんやりしてしまう時があると思います。そして指摘されて見れば、約束に対する私の心が揺れる時、生活はそれに左右されていることに気づかされます。
このあたり、顯進様はどうなのでしょうか?
このみ言の中で顯進様は、「皆さんは、原理の理想通りに生きなければなりません。」と語られています。内心「無理だぁ~」という心が湧いてきそうですが、顯進様がこの言葉をハッキリと言ってくださることは限りない感謝だと感じます。
私自身が原理を学んだり人に伝えたりするときには、初めから私自身や他の人が堕落人間であることを前提にしてしまい、どうしても妥協した理解や表現になってしまいます。しかし顯進様のこの言葉は、第一に顯進様御自身がそのような基準を立てた上で語ってくださっていることを感じますし、第二に、私たちを堕落人間としてではなく、本然の人間に復帰し完成することができる者として扱ってくださっています。第三に、神様の私たちに対する願いを忠実に代弁してくださっていることを感じます。
神様が人間に対して絶対信仰の基準を立ててくださっているように、顯進様も私たち祝福家庭に対して絶対信仰を立ててくださっている、すなわち人間的な視点で見ず、神様が見つめるように見つめてくださっています。
顯進様の内にあるそのような基台が変わらないからこそ、顯進様が信じていることと、顯進様の行動や投入が一致しているのだと思います。
顯進様はこのように絶対的に信じた食口たちから誤解され追い出された立場に立っても、今も祝福中心家庭に責任を持とうとしてくださっています。
今日のみ言は、顯進様がそのような信仰基台を立ててくださりつつ、私たちに信仰基台のお話をしてくださっているため、言葉以上に、お話をされる姿勢が心情に迫ってくるものがありました。
「顯進様って、この時点でどう見ても完成してるよね?」と思った食口はクリック!!
≪真のお父様のみ言抜粋≫
文鮮明自叙伝『平和を愛する世界人として』より
----131~131ページ----
翌年五月、奨忠壇公園に近い北鶴洞のバラックを借りて、「世界基督教統一神霊協会」の看板を掲げました。このような名称にした理由は、いかなる教派にも属したくなかったからです。だからと言って、もう一つ他の教派を作る考えは更にありませんでした。…(中略)
とはいえ、私は教会という言葉をさほど好みません。…(中略)…本来、教会という言葉で人と私を分ける理由は何もありません。にもかかわらず、世間は「教会」を特別な意味を持つ言葉として使うのです。私はそういう特別な部類に属したくありませんでした。私が願ったのは教派のない教会でした。真の宗教は、自分の教団を犠牲にしてでも国を救おうとし、国を犠牲にしてでも世界を救おうとするものです。いかなる場合であっても教派が優先にはなり得ません。
仕方なく教会の看板を付けたにすぎず、いつでもその看板を外したい思いです。教会の看板を付けた瞬間、教会は教会でないものと区別されます。一つのものを二つに分けることは正しいことではありません。それは、私が夢見ることでもなく、私の行くべき道でもありません。国を生かし、世界を生かすために、もしも教会の看板を外さなければならないとするならば、今でも私はそうすることができます。
----250ページ----
宗教の間に立ちふさがる壁を崩さなければ、絶対にこの地上に平和は訪れてきません。宗教は、すでに数千年の間、全世界の多くの民族と連合して大きくなってきたので、文化的垣根が非常に高く、それを崩してしまうことはとても大変なことです。それぞれ異なる宗教が高い壁の中で、自分だけが正しいと主張しながら数千年を経てきました。時には勢力を広げようと、他の宗教と対立して争うこともありました。神の御旨でもないことに、神の名を掲げたのです。
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以前の記事で、以下のように書いたことがあります。
----(引用開始)----
お父様が摂理の曲折の中で1954年5月1日に統一教会を創立された時、特定の宗教団体をスタートさせることのデメリットを相当に警戒されていたのだということが、自叙伝には書かれています(『平和を愛する世界人として』131~136ページ)。しかし、実際には私たちは、お父様が警戒されていたデメリットに見事にはまり込んでしまったようです。
----(引用終了)----
このことについて、今日は書きます。最近紹介した氏族メシアに関する顯進様のみ言がありました。私たちが宗教の殻を脱ぎ捨て、氏族メシアや家庭連合へと移行する段階になって、ますます、特定の宗教団体をスタートさせたことのデメリットに気を付けなければならないと感じます。
1945年当時、キリスト教が全盛を迎えた時、お父様がもたらそうとしておられたのは、全人類を一つにすることができるビジョン、親なる神様の下に、人類一家族世界を実現するというビジョンでした。そのビジョンの下に、それまで分裂していたキリスト教を一つにし、すべての宗教を糾合し、国連改革を通して地上天国を成し遂げるために来られたのであり、新しい宗教団体をもたらすために来られた訳ではありません。
ところが実際には摂理の曲折の中で、1954年5月1日、お父様は統一教会を創立することになりました。その当時を回想されたのが上のみ言です。
今、定着時代に入ったということは、1945年当時の本来の摂理が出発する「ゼロ・ポイント」に回帰したということです。統一教会として荒野時代を通過しながら身につけたすべての慣習を脱ぎ捨てて本来的摂理に向かわなければなりません。
それでお父様は統一教会創立当初から、いつか本来的摂理に回帰する時に、宗教団体が陥りやすいデメリットが阻害要因とならないように、我々統一教会は「真の宗教」でなければならないとされました。それは上のみ言にあるように、教派に対する拘りを棄て、自分だけが正しいという主張を棄て、自分の教会と他の教会を区別せず、自分の教会を犠牲にしてでも平和や救いを優先する、という姿です。これがお父様が与えてくださった戒めです。
実際に私たちが作ってきた統一教会はどうだっただろうかと考えると耳が痛いです。分裂する以前の統一教会の姿を振り返っても問題が多かったですし、今、三つに分裂してお互いに「こちらが正しい」と主張し合う姿においても、そのこと自体がお父様の戒めに引っ掛かっています。
私たちの中にある「宗教的エゴイズム」(堕落性)と「荒野時代の古い観点」(摂理的無知)の二つが絡み合い、それがサタンの餌になってしまっています。今、統一家が三つに分かれていますが、どの立場にあるにせよ、こういったものを脱却していかなければなりません。
1945年当時、もしもキリスト教がお父様を受け入れていれば、どのような摂理が展開するようになっていたのか?一度、頭の中を白紙に戻して祈らなければならないですね。
「自分だけが正しい!」と主張しまくっていた食口は、反省のクリック!!